翻訳と辞書
Words near each other
・ ブロニスロウ・マリノウスキー
・ ブロニスロウ・マリノフスキー
・ ブロニスワフ・ギンペル
・ ブロニスワフ・コモロフスキ
・ ブロニスワフ・チェフ
・ ブロニスワフ・ドゥフ
・ ブロニスワフ・ピウスツキ
・ ブロニスワフ・フベルマン
・ ブロニスワフ・フーベルマン
・ ブロニスワフ・マリノフスキ
ブロニスワフ・マリノフスキ (陸上選手)
・ ブロニスワフ・マリノフスキー
・ ブロニスワヴァ・ケウプルリャン=ヴイチク
・ ブロニスワヴァ・ニジニスカ
・ ブロニス・ロペ
・ ブロニャトゥーロ
・ ブロノポール
・ ブロバリン
・ ブロフェルド
・ ブロブ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ブロニスワフ・マリノフスキ (陸上選手) : ウィキペディア日本語版
ブロニスワフ・マリノフスキ (陸上選手)

ブロニスワフ・マリノフスキ (Bronisław Malinowski、1951年6月4日 - 1981年9月27日)は、ポーランドの元陸上競技選手。1980年モスクワオリンピック3000m障害の金メダリストである。
== 経歴 ==
ポーランド人の父とスコットランド人の母の間に生まれた〔。
1970年、19歳で出場したヨーロッパジュニア選手権で優勝、初めて出場した1972年のミュンヘンオリンピックで4位に入賞し、2年後のヨーロッパ選手権では金メダルを獲得した〔。この大会で銀メダルを獲得した、スウェーデンアンデルス・ヤーデルードとはその後何度も対戦した。ベストタイムでは常にヤーデルードが上回っていたが勝負では相性がよく、ともにさほど強烈なキックはなかったが先行逃げ切り型のヤーデルードを最後に抜き去るというパターンで勝つことが多かった。
モントリオールオリンピックではマリノフスキとヤーデルード、タビオ・カンタネンが3強と目され、それに続くグループが急速に記録を伸ばしてきた日本の小山隆治らだったが、まだ差があると見られていた。レースは速いラップを刻み3強に東独のバウムガルトルが割って入る展開になり最終障害で先行するヤーデルードをバウムガルトルが抜きに行ったところで転倒、ヤーデルードが世界記録で辛くも優勝、わずかに遅れ気味だったマリノフスキは転倒したバウムガルトルを避け銀メダルとなった。
オリンピック後ヤーデルードは引退するが、1978年にはケニアヘンリー・ロノが世界新記録を出しマリノフスキの前に立ちはだかる。それでも、マリノフスキは強豪のロノとの激戦を制し勝利を収めている。同年のヨーロッパ選手権でも優勝した〔。
1980年モスクワオリンピックにマリノフスキは3大会連続出場を果たした。レースでは、タンザニアのフィルバート・バイが2000mを5分20秒4のハイペースで飛ばし、マリノフスキとは30mの大差がついた。2400m手前からマリノフスキはスパートし、残り1周で20m差に迫り、最後の水濠で逆転し、金メダルを獲得した〔三千障害物でもポーランド旋風 マリノウスキ 劇的逆転 読売新聞 1980年8月1日夕刊2ページ〕。
1981年9月27日、グルジョンツで自動車事故のため亡くなった〔 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ブロニスワフ・マリノフスキ (陸上選手)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.